聖地に一生行かなくてもご利益をいただく方法

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「あんたが高野山行ってきてから、元気になった」

と母に言われた。

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なぜか高野山だけが気になるようで

7月下旬に紀伊半島を縦断したうち、高野山の奥之院にも巡拝した。

旅から帰ってから、何カ所も廻ったものの、母は高野山の話だけ聞きたがるので不思議な感じがしていた。

もともと母はカンの鋭い人で、3年ほど前、熊野本宮に行ったときもいただいて帰った熊野牛王符を玄関に貼ってしばらくしてから同じようなことを話していたので印象に残っている。

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奥之院では授与所の前を通りかかって気になった白大黒天さんの台所に貼るお札をいただいた。

今年はちょうど春に祖母の法事をやったところだったし、6月に亡くなった伯父の四十九日も最近だったので高野山という響きに反応したのだろう。

聖地には行かなくてもいい?

パワースポットを求めて何度も神社やお寺を廻るような人より、高野山にも熊野にも一度も行ったことのない母のような素朴な人のほうがずっと聖地のエネルギーを素直に感じ取っているのかもしれない。

伊勢も熊野も一生に一度お参りできたら、という時代が長く続いた。

生活スタイルも変わり、交通の便も飛躍的に発達すると、あまりに聖地が気軽にアクセスしやすくなって、それはそれで遠くから素直におかげを受け取るという意識が遠のいてしまっているのかもしれない。

キセキレイさんが運営されているkisekirei styleというブログによく「ご利益クレクレモード」という表現が登場するのだが、まさしく必死でご利益をがっつこうというエネルギーがあるのなら少しでも感性を磨く静かな時間を持った方がいいように思う。

本当のスピリチュアルのあり方とは

「我以外皆師」という言葉があるが、本来のスピリチュアルというのはたった一匹の虫や一枚の葉の動きにも心を感じて、ご縁や有り難さをくみ取る繊細さを言うのだと考えている。

たとえば、親戚や知人が遠くの神社やお寺にお参りに行ったという話を聞いて、自分にもつながりがあってご利益のお裾分けをいただいている、といった感覚だろうか。

現代人からするとすべてがこじつけに感じるかもしれない。

だが、小さくて素直なこじつけの積み重ねをもって大きな流れを体感するときこそ、本来あるべき幸せの片鱗を感じ取れるのかもしれないと思う。

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