科学的根拠やエビデンスよりも直感を優先するということ

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最近、ネットの世界で泳いでいると「科学的根拠」や「エビデンス」を強調される場面が非常に多くなっていると感じる。

医療や健康情報はもちろん、政治経済から業界のテーマまで、どんなジャンルの話をするにせよちょっとしたことでも事実を捉え損なっていると袋叩きに合うような光景が増えた。

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証左のためにすべての表現が鈍る今

しっかりしたブログの記事からTwitterのつぶやきにいたるまで、もともとできるだけ正確な内容で発信したいと思っている私からすると、こうした傾向が強まることは嬉しい反面、ぼんやりした世間話でなんとなく書くことも一つ一つ気にしすぎて、思うように表現できなくなっているようにも思う。

極論すると、一個の人間の思考とは大いなる誤解と偏見に成り立っているわけだが、あまりに日常生活レベルで正確さを求めようとすると、明日の天気は観天望気や自分の何となくの感覚ではなく気象庁や気象情報サービス会社の天気予報をチェックして発言しなくてはならなくなる。また、明日のデートで利用するカフェのチョコレートケーキの商品名が果たしてガトーショコラだったのかザッハトルテだったのか、そもそもガトーショコラとザッハトルテはどう違うのか。こうした問題も丁寧に調べ上げていかねばならず、私は何も発言することができない。

こうした私の感覚というのは、もともと参考文献だったり引用元だったりを気にする細かな性格をはじめ学生時代に研究者を目指していて、MLAはもとより徹底した論文作法を身につけてしまった功罪なのかも知れない。

それよりも、生まれ持ってさまざまな決定をするときに、直感を最優先してきたツケがやって来ているという見方もできる。

直感をすべてに優先させてきた人生

それが霊感なのか霊能力なのか、それは別儀としても、小さい頃から「嫌な感じがするからやめる」とか、突発的にこれだとひらめいて「どうしてもこれをやりたい」だとか、直感に従って生きてきた部分が大きい。大人たち家族からすれば、子どもらしいわがままであったり、気まぐれであったりと思っていただろうが、私の中では物心ついたときからすでに、自分が周囲の大人に求めるニーズの何がわがままで、どれが直感からやって来るものか内心ではっきりとした区別があったので、大人たちに理解させることはできないまま時間だけ過ぎ去ってしまった。

言語力ひいては表現力や自分の意思や感情を意識化して他者に伝える能力が未発達な子どもはもちろんのこと、大人になったとしても直感の内容というものはおいそれと言語化するのは難しい。大人たちの反応を気にするあまり、直感からやりたいことをそのままストレートに周囲に伝えるのではなく、どうにかして社会的に受け入れられやすい言動に変換してしまう癖がついてしまった。

誰しも、本音をうまく社会に適合させて自分の意思を具現化するために、合理的で社会性を帯びたニーズにしていくことはまったく珍しいことではない。単に金を稼ぎたい人であっても、社会に貢献するためという建前によって周囲の理解を得ることも、経済力のために誰かと結婚をすることも、それぞれリアルに人間らしい側面だといえる。ただ、もっとプリミティブな直感をベースにした意思というものは、社会的に変換しづらいのは確かである。

すべてを証明しても直感のみ自身で責任が取れるということ

人生は選択の連続であるわけだが、直感に従うということはたとえ周囲が理解できなくても、あちらではなくこちらの道を選んでいたからこそ事故に遭わずに済んだといったものから、たまたま普段通らない道を選んだらバッタリ久しぶりに知人に出会ったといったものまでさまざざまだといえる。

問題は、そのときに、自分の中で科学的根拠やエビデンスより直感を優先するかどうかにかかっているのであって、私たちは何かを証明するために生きているのではなく、ただ生きるために生活しているという根本的な事実を思わざるを得ない。

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