ただ『私』は運をコントロールしたい。

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コロナ以降、手洗い・うがいやマスクが習慣化しました。

新型コロナウイルスがどこに付いているかわからない。

その恐怖とともに日常を暮らすようになって、早半年。

病院でも公共施設でもデパートやコンビニでも家庭でも、感染症対策が多かれ少なかれ浸透しています。

ただ、どこまで対策をするのか、センシティブに構えるのか、までいけば、それは個人差がかなり大きいようです。

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感染症対策も結局極めてパーソナルな領域の話

手洗い

先日、半年ぶりにランチに訪れた地元の観光地の飲食店。

スタッフ全員、マスクをせずに接客。

入り口にアルコールはあったのかどうかも、よくわからなかった。

小一時間滞在していて、来店した客はざっとのべ12名。

そのうち、店内の手洗い場に向かったのは1名のみ。

あとはトイレにも入らず、食事を取る。

こういうシーンは、お店や公共施設のトイレでも同じ。

男子トイレで、たまたま私が用足しに入ったとき、この半年で数回として、それでも、ハンドソープもつけずさっと数秒水で流す程度の人が大半。

これでも、コロナ以前よりは洗面台で手洗いする割合が増えたというイメージです。

マスクは他者からわかりやすいアイコンだけれど、手洗いとなるとかなりパーソナルな領域に入ってきます。

ここまで来ると、個人の意識に頼るしかない、というか、それが限界だということでしょう。

私たちはどこまで科学的なアプローチを重ね続けられるのか

ウイルスがどこについているのかは、見えないだけに、神経質に対策をしようとすればいくらでもできてしまいます。

帰宅したらすぐ全裸になって着ていた服は洗濯機へ。

そのままシャワーを浴びる。

手洗い・うがい・顔を洗って、タオルで拭き取る。

こまめにタオルは交換する。

玄関のドアや手すり、共有部分はアルコールや次亜塩素酸などで消毒する。

宅配が届いたらまず物置に入れる。

そして開封して、一度手洗い。

中の商品を取り出してさっと消毒して、もう一度手洗い。

などなど。

どこに焦点を置くのか、どこまでやれるのかは、人によってもその時居る場所によっても違ってくるはずです。

こうした感染症対策をできるだけ積み重ねることで、リスクを限りなくゼロに近づけること。

それでも、感染するときは感染してしまう。

それが、病気の極めて厳しいところ。

ただ、私たちはどこまで感染症対策をやるべきなのか。

個人や家庭レベルで医療機関並みの対策をするのは、とても難しいのは事実。

たとえば手洗い後の拭き取りも、理想はペーパータオルで拭き取ってそのままゴミに捨てること。

しかし、家庭でペーパータオルを使っている割合は、多くないのではと思います。

本音はただ『私』という個人の運をコントロールできればいいということ

運

問題は、私たちにとって、どこまでが感染症リスクのコントロールなのか。

いや、私たちは、叶わないとしても、『運』をコントロールしようとしているのではないか。

極端な話、感染拡大地域にいるからといって『その人』にとってそれがそのまま感染に繋がるわけではない、というのがどこまでも果てしない理屈というもの。

たまたま地方の人間が東京に滞在していた。

本来いるべき地方で生活していた導線上に、実はクラスターが発生していた。

住所地にいなかったから感染しなかった。

これは運といえば運であり、それでも本人は徹底して感染症対策をしていれば、科学的なアプローチの上に運が味方したということにもなるものの、一般的に、そこまで峻別して可能性を考えることはしない。

ただ、仮に社会のある部分において、もうすでに運をコントロールしようと願っている人たちが一定の割合いるのであれば、それは占いといえるものに近い傾向であり、スピリチュアルな領域でもあり、科学的な認識が前提で成り立っている私たちの社会はかすんでいくしかないのかもしれない。

運が良かった。

運が悪かった。

というのは、社会にとっては検討材料に入れられない要素だとはいっても、『私』という個人にとっては、それがすべてであるし、そのすべてが現実にならないために科学的な知識をベースに淡々とアプローチをこなしていくしかないわけで、藪から棒に私たちはただ手を洗ったり、マスクをし続けたりするのはではない、としか言葉を置くことができない。

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